殿様街道1
2025/3/22
 瀬戸の定光寺には尾張藩の藩祖徳川義直公の霊廟があり、歴代藩主が名古屋城から定光寺へ参拝に訪れていた。名古屋城から尾張旭市の砂川追分地点までは信州飯田街道を通り、ここで定光寺へ続く北東方向へ進む道へ分岐したことからこの道が殿様街道と呼ばれるようになったという。道路や公園の整備、住宅地の造成などの土地区画整理事業で大半は消滅しているが、一部に旧街道の面影を残しているので砂川交差点から定光寺までを3区間に分けて辿ることにした。
  
1920年と現在の地図の比較(「今昔マップ on the web」より)
新居北部児童遊園に立つ説明看板のマップ
尾張旭市のHP「歴史の散歩道ー史跡散策コースの紹介ー」より
 尾張旭のほぼ中心を、東西に走る瀬戸街道。名古屋から小幡、印場を通りすすむと砂川(すがわ)という交差点にさしかかります。道はそこから約50mほど東、通称つんぼ石殿様街道とに分かれていました。現在は土地区画整理事業によりつんぼ石はやや北の位置に移動し、殿様街道の道筋は姿を消しました。殿様街道は、尾張藩の歴代藩主が、瀬戸市の定光寺にある初代藩主徳川義直(とくがわよしなお)廟(びょう)に参拝するときに利用した道で、御成筋(おなりすじ)定光寺道(じょうこうじみち)などとも呼ばれていました。一般の人々ににとっては、中山道への抜け道であったり、水野代官所(瀬戸市)へ往復する生活道路でもありました。
砂川交差点北東角の看板
    殿様街道起点跡・つんぼ石跡
 瀬戸街道からこの地(八瀬ノ木)で分岐し、市内を東北へ進む一本の道がありました。「殿様街道」と呼ばれたこの道は、市内(旧新居村)を通過し、瀬戸市の定光寺まで続いていたのですが、土地区整理事業により平成二十年頃、姿を消してしまいました。
 「殿様街道」と村人が呼んだのは、歴代尾張藩主たちが初代藩祖(徳川義直)の眠る定光寺への墓参りや、この近隣で鹿狩りを行った際に通ったためとされています。
 また、この地点には「つんぼ石」と呼ばれた大きな石が置かれていました。現在は少し北側に移動し、解説版も設置されています。
                                  
尾張旭市教育委員会
尾張旭市新居北部児童遊園の看板
    尾張旭の古い道を歩く 殿様街道
 江戸時代に、尾張の殿様の行列が通ったことから名付けられた道です。尾張初代藩主 徳川義直はたいへん狩りが好きでした。そこで、この道を通って森林公園あたりにあった「ゑびす御林」や、瀬戸の水野山などへ、鹿狩りに出かけました。
 新居町八瀬の木の、通称「つんぼ石」の所で瀬戸街道からわかれて北東へ進んできた道は、ここから濁池の堤防へと向かいます。新居町明才切のあたりには、今でも昔の街道の雰囲気を感じられる所があります。
                               尾張旭市教育委員会
尾張旭市柏井町交差点の大楠横の看板
 「尾張旭の古い道を歩く」殿様街道
 江戸時代に、尾張の殿様の行列が通ったことから名付けられた道です。尾張藩初代藩主 徳川義直は、瀬戸の定光寺に葬られました。その後、歴代の藩主たちは墓参りのため、この道を定光寺へと向かったのです。また、名古屋城を築いたときに、石垣を造るための石を運んだという記録もあります。
 新居町八瀬ノ木から進んできた道は、濁池の堤防を通ってここまで来ました。きっと殿様たちも、濁池の景色を見たことでしょう。
 この先の森林公園乗馬施設に、昔の道の一部が残っています。
                                     尾張旭市教育委員会
<砂川交差点・殿様街道起点>
小型の看板で予備知識がないと見過ごしてしまいそう…
80m程東進して左折して「つんぼ石」へ向かう
<砂川公園入口に移設された「つんぼ石」と「道標」>
道標の文字は劣化しているが「定光寺道」と刻んであるらしい
<解説板>   <名鉄瀬戸線踏切>
砂川交差点からの旧街道は完全に消滅しているので砂川公園から東へ進み、踏切を渡れる道へ左折後、線路の北側の道を更に東へ進む
<城山公園眺望地(踏切から300m)>
室町時代に旧新居村の開拓の祖である水野又太郎良春の子孫が築いた城があったと伝わる。
堀や土塁の遺構が残るが石垣や天守閣はなかった。現在見 られる石垣や天守は当時の城を復元したものではない。
<殿様街道入口>
更に100mほど進み左折後細い道へ右折。ここから新居町交差点の西まで500m程狭く曲がりくねった道が続く。土地区画整理事業の際に集落内の住宅密集地を通る道路に対して最小限の変更に留めて旧道が残されたようだ
<新居町明才切地区内の旧道>
道沿いには以前は農家だった思われる広い屋敷の住宅が見られる
<新居町明才切地区内の旧道>
殿様街道と断定はできないが旧街道の雰囲気を感じる
<新居町交差点>
北東方向へ進んできた道は、城山街道で途切れるが交差点の東から再び北東方向へ続いていく
<新居町交差点>
城山街道からの分岐点、ここから比較的広い道が北東へ続く
<北東方向へ進んだ最初の十字路右手の案内板>
北側200m程先の退養寺境内にある弘法大師像へ寄り道
<奉納された幟と「水野又太郎良春墓」の案内板>
退養寺は良春の弟が開いた寺
良春の墓や厄除け弘法大師として親しまれている大きな像がある
<厄除弘法大師像(高さ約10m)>
1931年(昭和6)に瀬戸電気鉄道が鉄道利用者の増加を狙って観光用に立てたものというが、奉納された沢山の幟から人気の高さが伺える
境内から南へ2本目の児童遊園・濁池へ通じる道を進む
<新居北部児童遊園に立つ看板>
地図には砂川交差点から北東へ通じる道筋が大まかに記されている
尾張旭市HPを調べても現在のどの道が殿様街道なのかは不明のため
新居町明才切地区を通過して北東へ続く旧道らしき道筋を進んできた
<退養寺境内南から濁池堤防へ通じる道>
緩やかにカーブする道で車が対面通行できる幅に拡幅されている
<濁池>
農業用のため池であるが遊歩道のある公園として整備されている
右手の堤防上は歩道があり車が対面通行できる幅の車道になっている
<柏井町の大楠>
濁池からカーブする道を進むと柏井町交差点北の大楠が見えてくる
大楠の横に殿様街道の説明板が立ち、道はここで森林公園通りに合流
<大楠根元に立つ看板>
ここまでは旧道と思われる道を辿ることができたが
この先は森林公園の整備により殆どその面影はなさそうだ
<メ モ>
・ 私自身も過去に土地区画整理事業で住宅移転を余儀なくされた経験がある。当初住んでいた集落の記憶を現在の地図に重ね合わせてみると狭く曲がりくねっていた生活道路が多少のカーブはあるが車の通行可能な道に整備されている。換地や減歩で互いに協力して新しい道の場所や広さを生み出すことで実現したことが分かる。殿様街道のように長い距離の旧道が残ったのは、利便性を犠牲にするなど地域の協力が不可欠で、史跡とも言える殿様街道への人々の強い思いがあったからだと思う。
・ 隣の市でありながら森林公園へ訪れる程度で市の歴史や文化財について殆ど知識が無かった。今回、殿様街道を辿る計画作成のために尾張旭市のHPなどを調べることで、南朝方の武将だった水野又太郎良春によって開墾された土地であり、城跡や義春の墓、一族の供養塔なもが残っていることが分かった。尾張旭駅前に勇壮な義春の騎馬像が設置され、市の中心に城山公園を整備し城を築くなど、良晴が地域発展の礎を築いた歴史上の大切な人物として市民から尊敬されていることを感じさせられた。
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